エッセイ20 みつけられない自分

カタギです、

だれでも、
好きな自分、嫌いな自分、

というのはいると思う。

僕は

自分の考えは好きだ。
自分の能力は好きだ。
自分の知性は好きだ。
自分の決断力は好きだ。
自分の創造性は好きだ。
自分の柔軟性は好きだ。
自分の発想力と構成力は好きだ。
自分の未来計画力は好きだ。

それが好きな”自分で”
一方、僕は僕だけの僕は嫌いだ。

つまり、

プライベートの自分が嫌いだ。
生身の人間としての自分が嫌いだ。
脳みそを外した肉体的な自分が嫌いだ。
能力と知性を外した心だけの自分が嫌いだ。

ということが最近、ようやく分かった。

いや、嫌い、というのもまた違う。
本当は、自信がない、というのが正しい。

自信がないし、誇りがないし、
そして愛していない。

自分で自分のそこを愛していない。

体だけの自分を愛していない。
心だけの自分を愛していない。
ありのままの自分を愛していない。

それがようやく分かった。

これは僕にとって実に大きなことだ。

愛していないということは、
認めてないし、受け入れてないことだ。

つまり僕は僕の能力や思考は好きだが、
人間としての自分は愛しておらず、

ありのままの生身の自分を否定し、
無意識的に認めていなかった。

そういうことが言えるのだと思う。

自分で認めてないと何がマズイのか?

いくつかマズいポイントがある。

まず認めてないと、成長できない。

また周りからも認めてもらえない。

この2つが実に大きい。

僕は生まれてからずっと、

ただの人間としての自分を
周りの人間から認められることはなかった。

より正確に言うと、認められるというか、
見られたり、発見されることがなかった。

僕が他者から僕について
フィードバックを受けるのはきまって

僕の思考や能力や
意見やアイデアについてで、

人間としての僕は基本的に
人から注意を向けられることはなかった。

「これを頼む、お前ならできる」
「お前の考えはおかしい」
「君のアイデアは興味深い」
「適切なアドバイスだと思います」

など、僕が他者から良い評価であれ
悪い評価であれ発見されるのは、
きまって、僕の考えや結論や、
アイデアやコンセプトについてで、

生身の僕に目を向けられることは
ほとんどなかった。

これは親や先生でも同じである。

ESFPの母は、

「パソコンが壊れた、お願い」
「テストの採点手伝って」
「旅行いきたいから、計画たてて」

など、

僕に目を向けてくるときは
決まって僕の能力やアイデアを
当てにしている感じである。

僕が生身の人間らしいこと、

例えば

「俺はこういう性格なんだと思う」
「結婚はこういう風に考えている」
「友達を作るのは不得手だ」
「今のバイトはストレスがある、嫌だ」
「○○は嫌いだったけど好きになった」

というような事を口にしても、
(めったに口にしないが)

彼女はあまり反応せず、
すぐ自分の話に戻る。

「なんであんたがそんなこと言うの?」

という感じで、

なんと言っていいか、
分からないように見えるのだ。

ESTJの父親も同様である。

彼が僕に目を向けてくるときは
決まって、

「おい、弟(彼の息子、僕にとっては弟)
の勉強をみてくれ」

「おい、アイツ(兄)は何をしたいのか
将来どうするのか
聞いておいてくれ、なんとかしてくれ」

「おい、家(実家)は修繕しないとダメだ。
修繕積立金はどうなっているか確認しろ」

「おい、家(実家)はちゃんと片付いているのか
お前の母さんは掃除が全くできないから、
お前がやらないとダメだ。ちゃんと掃除してるのか」

など、大抵が

弟をどうにかしろ、考えろ、
兄をどうにかしろ、考えろ、
家をどうにかしろ、考えろ、

というもので、

「俺はこういう音楽が好きなんだ」
「音楽作ったんだ聞いてよ」

ということを言っても無反応であった。

こんなことをいうと、

変に自虐的な事をいって、
可愛そうな自分を演出して、
不幸自慢かよ~~と思われるので嫌だが、

まあそんな感じだった。

学校の先生に関しても、
いくつか印象的なエピソードがあって、

どこかでも話したかもしれないが、

高校の三者面談で、

「カタギ君に関して、言うことはないです、
たぶん自分で色々と考えていると思うので
私には彼は分かりません。」

みたいなことを母親に言って、
母親が面談後怒っていて、
僕はショックを受けていた、みたいなことや、

後は、中学の卒業式の日、

卒業アルバムに色んな人の
メッセージやコメントをもらっていて、

1年生のときの担任の先生に
僕がわりと好きだったので
メッセージを書いてほしいと
もらいに行ったとき、

「…え?いや、どうして?え?」

みたいな感じで怪訝な顔をされて
(ショックだったので今でも覚えている)

それでもお願いしてメッセージを
書いてもらったこととか、
(当たり障りない内容だった)

ESTJの大学の担任の先生に関しては、
(僕は同期20人ほどで一番
長く在籍したのにも関わらず)

彼が主催する同期の飲みや集まりには
僕には声が絶対にかからない。
なぜかいないことになっている。

先生がいない普段の同期会では
僕は幹事的な存在なだけに妙である。

(交流がないわけではない、
普通に話もする。仕事を任されたりもする。
ただなぜか学外では誘われないし、
他の同期は今の仕事や結婚とかを
根掘り葉掘り聞かれているが
僕は絶対に聞かれない謎がある。)

彼とも在学中、親との面談があったが、
例によって母はご立腹だった。

「先生、あんたの事、
ほんと何もしらないのね。
あそこまで興味ないと呆れちゃう」

また母は、自分も中学の教師だからか、

「あんたくらい先生に好かれないのも、
珍しいわよ。びっくりだわ」

みたいなこともよく言っていた。

まあこれはあんまり関係ないかな、
蛇足かもしれない。

とにかくこんな感じだが、途中から
ずっと不幸アピールみたいな感じに
なってしまった。申し訳ない。

とにかく、何が言いたいかというと、

僕は生身の人間としての僕を
あまり周りから見られてこなかったのだが、

それは周りが僕の事に興味なかったり、
愛してなかったわけではなくて、

おそらく原因は僕自身が僕のそこを
愛してなかったことに原因があると思う、

普段の態度や言動や生き様の中で

僕が僕のそこ、
人間らしい僕を認めて愛していることを
表現できていれば、

ちょっとそこを口に出したときや
そういう行動を見せた時に
相手は違和感を感じず、反応して
くれるだろうし、

積極手にフィードバックも受けるように
なるのだと思う。

ということが今回の言いたいことである。

だから今回は僕の自分語りみたいに
なってしまったが、あなたも周りから

見られていない自分、
発見されてない自分

があると思う。

もちろん僕とは違う部分だろ。

そしてそこに実は心の何処かで、
さみしい思いをもっているかも
しれない。

誰か見つけてくれ…

と思って願っているかもしれない。

僕も普段はあまり意識しないが、
時として寂しい気持ちになることがある。

でもその寂しい気持ち、
普段はどうでもいいと思っているけど、
急に認めて見つけてほしくなったときに、

急に言ったり、行動しても相手は
期待通りの反応は絶対に返してくれない。

それは急ではダメなのである。

普段から非言語で無意識的に
自分でそこを見つけて認めて愛している
ボディランゲージをみせないといけない。

そういうことだと思う。

今回は難しくなってしまったかもしれない。

でもとても大切な話だと思う。

あなたもあなたの

「周りからどうしても発見されない
見てもらえない自分の部分」

という点を考えてみてはどうだろう。

ヒントとしては
心理機能の理論で考えるとやっぱり
劣勢や第三、急所になるのだと思う。

もし感想やご意見があれば、
いつものように遠慮なく送ってくださいね。

それでは。

カタギ(INTP

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