カタギとは?

カタギです、

私は今16タイプについて
ウダウダ好き勝手に喋る事を
仕事にしていますが、

もともと自分の事を話すのが
得意ではなく、私自身については
あまり明確に語ってきませんでした。

なので、今回は私の今までの
人生の歴史についてざっと
話していきたいと思います。

私は別にそんなに面白い人生を
歩んできたわけではありません。

読んでも退屈かもしれませんが、
正直に思い出せる事を書いてみました。

時間があれば読んでみてください。

長いので、今回は前半編ということで、
中学校までについて書きます。

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カタギのこれまでの人生
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【幼少期】
1988年5月18日、
春にしてはやたら暑かった
その日の午前8時程に、

東京杉並区の韓国人の
おばちゃんがやっている
こじんまりとした
個人経営の助産院で生まれる。

今はそんな色黒ではないが、
生まれた時は黒かったらしい。

母方のESTJの祖母がそれを見て、
名前を「黒助」にしたら
いいと言っていたらしい。

生まれてから
4歳くらいまでの記憶はない。

兄に比べて手がかからなかったとも
聞いたことがあるが、本当の所は不明。

4つ上にそのINTJの兄がいて、
ESTJの父親は養護施設の料理長で、
ESFPの母親は公立中学校の社会科の教師。

生まれてすぐ、保育所に、その後、
生後半年くらいで保育園に入る。

保育園の記憶もあまりない。

保育園ではガキ大将感があったようで、
とにかく他の子に命令指示していたらしい。

やたらリーダーぶっていたらしく、
例えば保育園は最後、それぞれの子の
親が迎えに来て帰るのだが、

その順番が僕は大抵最後だったためか、
僕は他の子の順番や親をすぐ理解して、
次、誰それのお母さんが来るなどを
覚えていて、その子を呼びに行っていたらしい。

【小学生・低学年】
地元の公立小学校に行く。

1,2年生の頃は目立ちたがり屋で、
将来の夢はお笑い芸人だった。
(文集に書いてあった)

色々と発達が早い感じで、
算数ドリルとか計算ドリルとか

必ず1番に終わらせて、
「はい!終わりました」とやって、
得意気にしていた。
(これは記憶にある)

休み時間はドッジボールとかで、
特に仲の良かった友達2人と、
「当ててみろ軍団」を形成して、
クラスの他の男子を挑発する、という
謎の軍団をやっていた。
僕は隊長で1号だったようだ。
(こういう事を書くと恥ずかしい)

この時女子が嫌いで、
この「当ててみろ軍団」に入りたいと
女子2人が言ってきた記憶があるが、
正式には加入させず、見習いみたいな
感じで雑に扱っていた。
(皆そうかもしれないが、
なんとなく女子と遊んでいるのは
かっこ悪いから嫌というのがあった)

家では兄と特に仲が良く、
大抵一緒に遊んでいた。

兄は僕の友達とも結構一緒に遊んでくれて、
大体が兄が決めて、僕が調子乗って、
同級生に色々指示していた。

ただ、父親は厳しかったので、
よく泣かされていて、ちょっと怖かった。

母親は嫌いではなかったが、
あまり絡んでくれないので、
兄のほうに基本的にはなついていた。

兄とは一緒に漫画を作っていて、
僕や兄がヒーローになって登場する
物語だった。

基本的には僕が主人公で、兄が
時々、お助け、みたいな感じで
登場する、という作品だった。

テーマソングも作って、
よく歌っていた。

漫画は今読むと意味不明で、
如何にノリで書いていたか分かる。

他に趣味としては、
統計データの本やことわざ辞典などを
読むのが好きで、そればかり読んでいた。

アニメや漫画は兄が好きだったので、
僕も一緒に読んでいたが、
兄と比べて読むのが遅かった。

兄がガンダム作品などが好きだったため、
早く学校から帰ってくる僕に録画を
命じていたが、大抵僕は忘れていて、
いつも怒られていた。

TVゲームは兄と一緒に主に
対戦格闘ゲームを
スーパーファミコンでやっていた。

主人公キャラばかり使う兄に
対して、大抵僕は悪役のキャラを
愛用していた。

ゲーム自体は兄の方が上手だった。

【小学校・中学年】

どこかのSAでの写真。やたら暗い(背景が…)

1、2年生はお調子者で、
目立ちたがり屋でムードメーカー的だったが、
3、4年生になるともう少し落ち着く。

3年4年の頃は外で遊ぶことが減り
自由帳に自分でデザインした
怪獣、モンスターを書く事を始め、ハマる。

その時、仲良かったISTPの友達が
「それいいね、俺も書く」と真似してはじめ、
一緒に数を書いていく。

僕の方は数が多かったが、
よく分からないものばかりだったのに対して
ISTPの友人は数は少なかったが、丁寧で、
明らかに彼の方が上手にかけていて、たまに落ち込んだ。

低学年の頃は1番に答えることに
熱心だったが、勉強はこの頃になると
サッパリで、遊んでばかりいた。

家に帰ると、そのまま荷物だけ置いて、
そのISTPの家に行っていた。

違うクラスで僕の方がHRが終わるのが
大抵早かったので、彼より先に彼の家に帰っていた。

それで彼の母親に色々ケーキとかを
ごちそうしてもらっていた。

そのISTPとはポケモンとかマリオカートとかやったり、
公園でダンゴムシを集めたりかくれんぼとかしていた。

またこの頃、両親が離婚して、
父親が家を出ていった。

最初は母親も、ちょっと別に住むだけだから
気にしなくていいと言っていたが、
段々、完全に別れたんだと気が付き、
とても悲しかった。

1人暮らしの父親は近くにとりあえず
住んだので、兄と2人でよく遊びにいった

一緒に住んでた頃より、父は優しく、
この頃は特に母より父の方が好きだった。

僕は学校の話を聞いてほしかったが、
母は大抵、夜遅く帰ってきて、
疲れている感じですぐ寝たので、
僕は不満を感じていた。

この頃はファザコン気味で
父には甘えて、母とは衝突ばかりしていた。

兄は両親が離婚してから、段々
ヘンになっていき、それまでは
べったり頼っていた僕も、
兄とは別行動することが多くなった。

【小学校・高学年】

両親の離婚が直接影響を与えたか
分からないが、その後5年の後半、
6年生くらいになると、大分、僕は暗い
性格になり、大抵1人でいるようになった。

真夜中、家のベランダに一人で出て、
遠くを見ながらコーヒーを飲んで、
悲しみに暮れていた。

友達も少なくなり、班決めとかで、
余る友達がいない感じのやつになった。

この頃は放課後は1人で常に近所を
当て所もなくあるきまわっていた。

何か考え事をしていたのだと思う。

ただ同級生とかにはそんな孤独な
自分を見られたくなかったので、
同級生とかに会うと気まずかった。

ただ、ケンカは強い方で、
学年の男子でケンカ大会や
相撲大会があると、
必ず上の方だったし、

「あいつは強い方」と
一目置かれていた。
(また僕自身もこれは
高いプライドがあった)

また腕相撲もこの頃は強く、
学年の男子で2位だった。
(1位は中東ハーフの子で、
レベルが違った。また、今は
腕相撲もケンカも弱いと思う)

またこの辺りから、鬼のように
読書を始め、とにかく
本を読んでる感じになった。

学校の勉強は依然としてテンでダメで、
特に漢字テストはいつも最下位だった。

(この頃のことが影響してか、
僕は未だに書き順などが怪しい。
考えるの、「考」の漢字も、
大学生になるまで間違えて覚えていた。)

【中学生】

地元の公立中学校に行く。

中学校にあがると、何故か
勉強を真面目にするようになる。

小学校の頃は完全に落ちこぼれだったが、
中学校は最初のテストからほぼ満点で、
小学校から一緒の友人にとても驚かれる。

1年生は始めは小学3年くらいの時に
仲良かったISTPと仲良くしていたが、
部活が分かれて、次第に遠のく。

部活は色々迷ったが、テニス部に入る。

テニス部では上手でも下手でもない部類だった。

クラスでは最初の方は引き続き暗いキャラだったが、
明るい女子と仲が良くなり、次第に明るくなる。
(おそらく彼女はISTJ

クラスで1番仲が良いのはその彼女で
基本的に休み時間はその女の子と
彼女の友人とおしゃべりをして過ごしていた。

彼女に対して僕は恋愛感情はなかったが、
一緒に帰っていた時に、友人に
からかわれたりして、微妙に意識し始め、
徐々に距離が離れるようになる。

小学校まではサッパリだった勉強も、
家でよく勉強するようになったので、
大抵よく出来たが、特にこの頃は
理科が学校1くらいできて、
別の学校で開催される
色んな学校の優秀な生徒が集まる
授業に定期的に派遣?される。

学習発表会的なところで、
大人数の前で発表をするが、
とても緊張した記憶がある。

ただ、その後、理科の先生と
一悶着があり、
(かなり変わった先生だった)
ある事件の後、理科に関して
いい印象がなくなり、興味が薄まり、
次第に成績も下がっていく。

2年生。

ふとみた広告チラシから、
海外留学に興味をもち、母親に頼んで、
2年生の夏休みにイギリスに
15日間くらい短期語学留学に行く。

とても刺激的で楽しかった思い出。

それまでは英語が苦手科目だったが、
それから「英語得意な人」みたいな
感じでクラスメイトや先生から扱われる。

また留学先で仲良くなった友達の影響で
帰ってきてからギターを始める。

それまで音楽は全然知らなかったし、
歌も音痴だったが、ギターを始めて、
やたら弾き語りをしていたので、
歌も多少マシになり、音楽の成績もよくなるし、
流行りの歌とかも多少詳しくなる。
また、洋楽を聞き始める。

またやはりまた留学帰ってきてから、
英会話スクールみたいなのに通う。

英会話スクールというより、
個人の外国人の男の人が
カフェや事務所を借りて、
そこで、自由におしゃべりする、
という感じのところ。

そこに毎週通い、しかも
生徒は僕の時間は僕と70歳くらいの
おばあちゃんくらいだったので、
(しかもおばあちゃんも欠席が多かった)
楽しく外国人のおじさんと喋る。
また、彼と仲良くなって、色々と
ステレオとか洋楽のCDをたくさんもらう。

あとこの頃、映画館によく友達と行く。
大抵、大人っぽい洋画を見ていて、
実はあまりおもしろくなかったが、
なんとなく大人になった気分がしてた。

2年の終わりごろから
大手の学習塾に入り、塾の中で
成績を上げることに快感を見出す。

テストや模試の成績で結果が
1位、2位と出るが
トップを争っていたライバルに
勝った負けたで一喜一憂していた。

この頃は塾も遠い所に通い、
とにかく電車に乗って、
都会に行くのが好きだった。

3年。

3年になって受験になると、
とても熱心に勉強するようになる。

特に受験校選びがとても楽しく、
2年くらいから常に学校案内の
分厚い本を熟読するようになる。

高校見学は20校くらい行き、
東京住まいだったが、茨城の
学校なども興味もって見学に行ったほど、
今考えてもやり過ぎなくらい、学校見学にいった。

文化祭も兄を連れたりして
行きまくり、都内の高校は
公立、私立問わず
何故か非常に詳しくなっていた。

クラスでも休み時間など
ひたすら過去問などを
解いている感じになり、
この頃は明らかにガリ勉だった。

人間関係は、特定の仲が良い友人がいる
わけではなかったが、そこまで
浮いている感じでもなかった。

ギターを始めてから音楽が
とても好きになったので、
合唱コンクールは非常に力を入れた。

僕自身は合唱委員でかつ、アルトと
バスのパートリーダーだったので、
(何故か両方)

やる気がなく練習に参加しない
男子たちにガミガミと参加を促していた。
結果、クラスは7クラスの中で
金賞を取って優勝した。

受験は5校くらい受けて、
結果第一志望の都立高校に
受かったのでそこに決める。

また中学卒業後、
高校入学までの間の春休みは
ニュージランドに留学に行った。

こちらは飛行機乗り換えなどが
あり、またイギリス留学と違い、
ホームステイでかなり大変だった。

行きにマレーシアの空港で
ジャケットを盗まれて、
やたら寒かった記憶がある。

それでも無事日本に帰り、
そのまま、高校に入学する。

【高校生】

中学最後のニュージランド留学は
かなりタフだったので、
(ホストファミリーが全部
自分でやりなさい的な教育、
&ド田舎で何もない環境。)

帰国後すぐ(確か次の日)に
あった高校入学前の
オリエンテーションでは
かなり僕としては妙に社交的で、
積極的に他の子に話しかけ、
友達を作る。

そして彼と一緒に
バンドをやろうぜと持ちかけ、
いいね!と意気投合する。

彼とはクラスが離れたが、
入学後、落ち合い、
バンド結成に向けて2人で
他メンバー集めを開始する。

それとは別に
中学同様、硬式テニス部に入部。

硬式テニスを中学からやっていた
生徒は稀だったので、始めは
部内でも上手な方だったが、
次第に抜かされていき、
上手さは中くらいに落ち着く。

またテニス部とは別に、
ジャズ同好会にも入部する。

ジャズ同好会は1つ上の
先輩が作った結成2年目の
同好会で、上には先輩が3人だけ。

しかも3人とも吹奏楽部兼任で、
基本的にはジャズ同好会には
昼にまれに来るという程度だった。
(吹奏楽部の上手な面々が
たまに昼休みにジャズでもしよう、
という感じで始まったらしい)

そんな感じで練習場所も最初はなく、
放課後は僕たち1年生は昇降口や
廊下で練習をしていたりした。

部活以外でクラスでは最初だけ
ちょっと目立っていて、すぐ
おとなしいキャラのように
認知されるようになった。

勉強も同様、留学直後は
トップ層で、皆から一目置かれていたが、
すぐ落ち始め、平均に近くなった。

この頃は音楽ばかりしていて、
勉強は中学と比べれば、
まっっっっったくしなかった。
(中学がしすぎていた部分もある)

バンドの方はメンバーを上手く集めて、
1年の文化祭で演奏したが、
(僕はギターと、1曲歌った)
その後、僕はバンドを抜けた。

(メンバー内でも浮いていたし、
なんとなくソリがあわなかった。
僕がきっかけで作ったバンドなのに、
他のメンバーで色々と決まっていく形が
我慢ならなかったのかもしれない。)

バンドではGOING STEADYや
モンゴル800、バンプオブチキンなどを
演奏していたが(他のメンバーの趣味)
抜けてからは、僕は洋楽に完全に
傾倒していき、特にHR/HMにハマっていった。

また、DTMで作曲、録音することも
本格的に始め、色んな曲を演奏して
CDアルバムを作って、祖父や知り合いに
配ったりしていた。

テニスに関しては中学の頃は
上手な部員が通うテニススクールに
通ったり(ただ月額費を延々と滞納していた)
割りと熱心に取り組んでいたが、
高校では何となく楽しめればいい、
という感じでゆるい頑張りになった。

クラスでは1年は特定の友人は
いなかったが、
2年ではクラスが一緒になった
男3人と僕でグループのような感じで
一緒にいることが増える。

面子はISFJINFJENFJ
ENFJはジェンダーレスな部分があって、
女子の集まりにいることも多かった。

INFJISFJが大好きだったので、
4人でいる時は僕は
ENFJと話すことが多かった。

僕の学校は体育祭に皆が
かなり宗教的に力を入れる高校で、
それを担当する体育委員は
部活を超えたレベルで仲間意識があり、
またクソ忙しい委員会だったが、

2年のクラスは皆がなることを
嫌がり、話し合いの結果、ENFJ
僕となら一緒にやりたいとか
言い出して、なんとなく僕も
OKしてしまった。
(しかし、実際の活動は
ENFJはあまり来ず、
僕ばかりやることになった。)

ENFJはテニス部のキャプテンで、
普段は優しいが、一時期、強豪校の
練習に行った時に、強豪校の指導に
影響されて、人が変わり、

鬼のような軍隊感満載の
スパルタ指導に変わったことがあった。

その段階で、多くの部員が辞め、
ジャズ同好会の兼任でもある僕も、
色々と言われて、仲が剣呑になり、
全く口を利かない時期もあった。

しかししばらくすると、
するっと笑顔で話しかけてきたり、

「カタギ、新しい曲できた?」
(当時僕は作曲に夢中だった)

と僕の曲の事を聞いてくれたりして、
(曲の事を丁寧に聞いてくれるのは
ENFJだけだった。ISFJはすごいね、
へ~で終わっていた。
INFJは興味なさそうだった。)
何となく不思議な関係であった。

ジャズ同好会は色々あって、
僕の代は来るのが僕(と部長になる
吹奏楽の男子)だけになり、
2年になると僕が副部長になり(実質部長)
10人くらい入ってきた1年生を
ビシバシと1人で指導する。

その後、ジャズ同好会は僕の
文字通りの奮闘(練習場所の確保、
コーチの招聘、初心者の技術向上)で、
3年生の頃に部に昇格した。

ジャズでもテニスでも、先輩や同年代より
後輩の男女に妙に人気があり、色々と
モノをもらったりする。

勉強は中くらいだったが、
世界史だけはやたらと出来て、
ずっと学年で2番だった。

英語はできる別に5クラスに
分かれていて僕は入学からずっと2クラス
(二番目にできるクラス、1は留学生限定)
だったが3年の途中に3クラスに落とされる。

落ちる成績ではなかったため
(大体成績下位の数名が落ちるが
僕はその時中の下といった所だった)
先生に抗議(というより質問)に言ったが、

「お前は本気を出していない。
もっとやれるはず。ちゃんと
真面目になったら上げてあげる」

と言われる。

しかしその後僕は3クラスで
ずっと1番だったが、結局、
3年間、2クラスに上がることは
なかった。(入れ替えはあったが
何故か僕は変わらなかった)

とはいえこの頃は大学に行かず、
音楽の専門学校に行こうと
考えていて、実際3年の夏頃までは
進学する気はなかった。

しかし色々考えが変わり、
3年の夏の終わりごろに、
大学に進学することを決める。

その後、狂ったように勉強をし、
国立大学の外国語学部に入る。

【大学生・前半】

大学ではインドネシア語専攻。

同じ専攻の仲間は20人前後で、
男は6人ほど。ですぐ仲良くなる。

サークル・部活は色々と
見て回り、軽音、ジャズ、テニスなどに
とりあえず所属するが、軽音以外は
めったに行かなくなる。

1年の途中から塾のアルバイトを始める。
その後、1Kの家で1人暮らしを始め、
塾からスーパーにバイトを変える。

またバンドを組みたくなって、
メンバー集めをwith9など、
インターネットを使って募集し始める。

それでバンドを組みたい人候補に
何人も何人も会う。20人くらい会った。

その過程でいくつかバンドを組み、
ライブハウスで演奏したり、
イベントで演奏したりする。

自分はギター、鍵盤、ピアノ、ベース、
ドラム、そして歌など、とにかく
空いているパートを無秩序にこなす。

が、結局バンドはどんな人と
組んでも長く続かず、終わる。

それが大学1年~4,5年くらいまで。

バイトもスーパーの後、主に
ファミレスで働くが、こちらは
かなりブラックで、鬼のように働く。

仕事は自信があったし評価されていたので、
女の子にも人気があり彼女もできる。

ファミレスの店長はENTJで、
「仕事命」という感じだったが、
妙に僕のことを評価してくれていて、
それが満更でもなかったので、
ガンガン寝ずに働いていた。

ただ、色々と無理がたたって、
身体を壊し、精神的にも病む。

彼女との摩擦、バンドメンバーとの衝突、
ブラックバイトの不眠不休が重なったのが
原因だと今は思う。

足が急激に麻痺したり、
顎が開かなくなったり
とにかくヒドイ状態だった。

1人暮らしをやめ、実家に戻る。

精神的に消耗していたので、
本当は母親に甘えたかったが、
母はいつの間にか別の男性と暮らしていて、
実家には兄しかおらず、その時は絶望した。

しかし、明らかにヤバそうな僕に
対して兄は優しく、一緒に兄のおすすめの
アニメを見たり映画を見たり、
ゲームをしたりしてしばらくゆっくり過ごす。

この時大学5、6年目くらいで、
大学はバイトとバンドのし過ぎで
サボりまくっていたので、卒業も
危うかったが、この間心を入れ替え、
真面目に卒業、(また親が勧めていた
教員免許をとっておくこと)を
目指すことを決める。

また、アルバイトの時の失敗から
別の形でお金を稼ぐ方法を模索し、
当時流行っていたインターネットや
アフィリエイト、情報業界に目をつける。

【大学生・後半】

大学6年目。

バイトもバンドもやめ、実家から
また大学に通いはじめる。

一緒に入学した友人で残っているのは
ISTJの友人しかおらず(しかも彼も
週2回くらいしかこない)

寂しさを覚えるが、まだ余裕かまして、
(大学は8年までいられる。授業料はかかるが…)
あまり真面目に出席しなかった。

また大学では新しく友人を作ろうと思い、
ジャズサークルに顔を出す。

まったく知らない後輩ばかりだったので、
最初は溶け込むのに時間がかかったが、
なんとか仲良くなる。

バイトも新宿のカフェで始め、
やたら後輩におごるようになる。

またビジネスセミナーや
起業塾のようなものに積極的に
参加するようになり、そこで、
ENFJのセミナー講師と出会い、
彼の仕事を手伝うようになる。

(続く…)

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。