カタギです、
本日も自由に私の極めて
個人的な考えを書き綴りました。
・オシャレな言葉と流行
・桑田佳祐の魅力
・内的思考と外的思考の違い
・自己分析の難点
などについて、書いています。
もし、何かご意見やご感想が
ありましたら、教えてくれると、
とても嬉しく思います。
■言葉のブームと自己分析
言葉には流行りがある。
特に日本人はブームの言葉を
流行らせるのが好きで、
同じ現象を違う言葉で
説明するのが好きだ。
特に言葉のイメージが悪くなると、
すぐ新語で取って代わらせるが、
実態は何も変わってない事が多い。
一番分かりやすいのが、
「パパ活」とかだ。
基本的には「援助交際」と
なんら実態は変わらない。
悪いイメージを新語に取って
代わらせる例以外でも、
流行りの言葉は常にある。
例えばかなり前は「文化」という
言葉が流行った。
文化ブームの時代(かなり前)は、
創業する企業、新設の大学、
役務、サービスの名称などに
文化○○部、
文化○○大学、
など文化をつけるのが
オシャレで新しい、と流行った。
でも今はそんな大学名を
つけたら古臭いイメージがある。
大学名に関して言うと、
「国際」ブームもあった。
これは80~90年代くらいだと思う。
何でもかんでも、
国際○○学部、
国際○○大学、
と国際をつけると最先端で、
カッコ良いと信じられた。
今は誰も「国際」など使わない。
国際的、という言葉自体も
廃れてきて、
グローバル、という方が優勢だ。
言葉には明確な意味だけではなく、
必ず、時代的、文化的なイメージ、
そして言霊(ことだま)が付随する。
時代的なイメージは外的感情的な
捉え方だと思うが、言霊の部分は
内的直観的な捉え方だ。
なのでNJ型が使う、明確な定義と
少しずれたシンボル的な言語選択は、
僕には時々、よく分からない時がある。
特にENFJは前述の時代的イメージと
言霊を含めて言語選択をするので、
すごく特殊でとても興味深い。
サザンオールスターズの桑田佳祐さんは
ENFJだと思うが、まさに単語選択は
時代的イメージ×言霊的で実に特殊で
センス溢れ、素晴らしい曲を作る。
「勝手にシンドバッド」なんていう曲名は
時代イメージ×言霊の象徴を表れであるし、
(どういう意味ですか、とか考えてはいけない。
意味ではないのだ、感じるのだ、多分)
「愛の言霊」なんていう、まさに
言霊をタイトルに直接使った曲もある。
以前桑田佳祐さんは、
ESTPじゃないですか、と
強く何人かの方から言われた事があるが、
桑田さんはENFJである。
これは自信がある。
どうしてESTPだと思うのか
教えていただきたいくらい
豪快でアツく、繊細で真面目。
ENFJの象徴のような存在だと思う。
良くも悪くもESTPは
あんなに真面目ではない。
もっとカジュアルでテキトーで
脱力し、力が入ってない。
そして桑田佳祐さんには
全く内的思考が見えない。
いくら未熟だったとしても、
ESTPは内的思考(未熟な内的思考)が
やはり見えるが、桑田さんには見えない。
。。。。
かなり話が逸れた。
なんの話をしていたのだろう。
そう、言葉の流行りだ。
とにかく、言葉の流行りは
面白い。
で、今気になっているのは、
パパ活でも国際的でもなく、
分析や自己分析という言葉。
自己分析、分析という言葉が
若干流行っている気がする。
ニュースやどこそこの記事を読むと、
“~と○○さんは自己分析する。”
などと編集記者さんによって
誰かの言動や行動が
まとめられている事が多い。
そしてそれは賢い行いと
受け入れられており、
基本的には分析という言葉は
とてもイメージが良い言葉である。
が、
僕の話やメールにはあまり
分析という言葉が出てこない。
それもそのはず、
どちらかというと、僕は
分析という言葉が嫌いだ。
嫌いというのは言いすぎだが、
どうしても使う場合は限定してしまう。
僕はINTPで、メイン機能が内的思考。
内的思考を表す言葉として
よく挙げられる言葉に”分析”がある。
内的思考の能力のひとつに
「優れた分析能力」がある
というのが心理学での理論だ。
そしてこれには僕も同意する。
「なんだ!それは!矛盾じゃないか。」
と思うかもしれない。
が、そのタイプに近い言葉を
使うかどうかは、また別だ。
INTP、少なくとも僕は分析という言葉に
近いイメージなのは間違いないと思う。
実質的に僕は口に出してそう言わずとも
様々なことを自然と分析している。
社会や一般的な事を16タイプの話に
関連付けて、分析し、新鮮な仮説を
出し、それをメールやYouTubeなどで
みなさんに発表している。
ただその発表過程の中で、
「僕の分析では~」
「~と僕は分析します」
のように、分析という言葉は
ほとんど使わない。
YouTubeとか僕のプログラムとかで
聞いていれば分かると思う。
これはなぜだろうか?
なぜ分析という言葉を僕は
この場合、場面で使いたくないのか?
僕はこういう場面では僕はこう分析した、
ではなく、こう考えた、と言いたい。
それはなぜか?
おそらく、思考は変わるからだと思う。
考える事が変わるように、
自分の考えの分析結果も変わる。
それはネガティブな意味ではなく、
ポジティブな意味でだ。
変わらないといけない、
変わるべきだと考えている。
なので、「~と分析した」
と言ってしまうと、どこか
確定した感じに聞こえないだろうか?
結論付けられたように感じてしまう。
これを僕は避けたいのだと思う。
だから暫定的な分析、とか、
現時点での僕の分析結果であり、
変わる可能性は大いにあります、
おそらく変わるでしょう、
ということを踏まえれば僕も多分
分析という言葉を違和感なく
上記のような時に使えるのだと思う。
が、そんなことをいちいち言うのは
面倒くさい。だから僕は言わない。
ただ、そうはいっても
もちろん何か外部から客観的な
データを収集した上で、考察を
するときは、
「ここから僕が分析することは~」
という風に使うこともある。
また分析過程とか、分析結果とか、
分析に何かをプラスして使う事も
分析を単独で使うより多いかもしれない。
(自己分析は別。
分析の位置が分かる単語をよく使う)
解析や分解など、分析と似た言葉を
使う時、比較や参照として分析という
言葉を間接的に使う場合も多い。
ただ、それ以外のところでは
僕はそこまで分析という言葉は使わない。
が、これは損失でもある。
実はやはり分析という言葉を
使った方が良い時は確かに多い。
その方が真面目だったり、
理知的な印象を与えるからだ。
特に外的思考が入っている人や、
Jタイプの人は、
その方が安心するというのはある。
「こう私は考えました」より、
「こう私は分析しました」の方が
冷静な思考過程を経た結果、
明確な結論が出たのだろう、と
無意識的に感じるからだ。
だから誰かに何かを教える時は
大抵は後者の方がいい。
考えたとか言わず、分析した、
と言った方が良いということだ。
その方が学習者は安心して
その理論を信じやすいからだ。
だから僕も「心理機能大学」や
「ハッピーGOALプロジェクト」
「アンガー・ルール」など、
ひとつの一貫したプログラムを
作る時は、コンテンツの中で、
分析、という言葉を意識的に
使うようにしている。
が、そればかりだと、
思考が”確定”されてしまい、
自由な思考(内的思考)が
阻害される感じがするので、
他の場面では極力、分析、
という言葉を避けて、考えた、
というシンプルな言葉で
分析結果を伝えるようにしている。
。。。。
かなり七面倒臭い話になってしまった。
もっとわかりやすく話すつもりだったが、
うまく解説できたか分からない。
今回の話があなたにとって
興味深かったかわからないが、
もし何かの参考になれば幸いである。
カタギ(INTP)